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東京家庭裁判所 昭和52年(少ハ)9号 決定

少年 D・K(昭三一・三・一八生)

主文

本件収容継続申請を棄却する。

理由

本件収容継続申請の趣旨は、少年についての収容期限である昭和五二年一〇月二九日から六ヵ月間延長する旨であり、申請の理由は別紙のとおりである。

そこで、名古屋少年鑑別所長作成名義の再鑑別結果通知書、茨城農芸学院、八街少年院、小田原少年院、愛知少年院長各作成名義の各少年院成績通知書、法務教官作成の事故報告書(二通)、法務教官作成に係る少年の供述調書、医師作成の診断書および当裁判所調査官作成の少年調査記録ならびに当裁判所の審判の結果によると、凡そ次の事実が認められる。

(少年の生育歴)

少年は重婚的内縁関係にあつた実父母の下に生れ、実父の正妻との離婚が長らく成立しなかつたためこの間実母の非嫡出子として生活し、妹が生れてから正妻との離婚が成立してやつと父母の籍に入つた。実父が来るまでの実母の下での日陰の生活は苦しく、実父が来てからも酒乱気味で大声でどなられるため、少年は実父になじめなかつた。これに加えて実父母の愛情はもつぱら少年の妹に注がれた。実父母、少年の妹の三人のまとまりの中で、少年ははじき出される形となり、少年の疎外感は一層強いものとなつていつた。学校でも少年はいじめられつ子で、学校不適合を起し、怠学、家出などが重つたため、中学一年のとき児童相談所からA学園に入れられた。

この措置により、少年はますます家庭から疎外されているとの観念を強く抱き、親から捨てられたという意識から、親に対する増悪の念を持つようになつた。少年は中学卒業証書をA学園で受けた後もB学院に移つて○○高等職業訓練所に通い、一年後同訓練所を卒業し、引き続き○○製作所に溶接見習工として就職して入寮するなど結局長い間家庭を離れ、肉親の愛情についてまつたく飢餓状態といつてよい状態であつた。このような状況下にあつても特に生活がくずれることなくかろうじて小康状態は保つていたが、○○製作所を同じ年輩の連中が二人辞めたのを機会に自らも辞めてから、その日暮しとなり、成人とつき合うようになつて遊興をおぼえ、生活が乱れていつた。家族からの疎外意識は強く少年の脳裡にきざまれ、「親は自分を育てもせずただ施設へぶち込んだだけだ。」と思い込み、自己の問題点を把握するゆとりなく親に対する強いうらみをつのらせ、他人に対してもすねた態度、ふてくされた態度で接するため良き人間関係ができず、対人不信感から、時折、他人に対しても父親像とだぶらせてその噴満のはけ口とする性格が形成された。少年院送致に対しても、自己の罪責に対する反省をみられず、他罰的となり被害者意識のみつのらせる結果となつている。

前回の収容継続に際して、小田原少年院に父母が来たが、少年が「ぶつ殺したい」程にくんでいるため審判に立会わせることができなかつた。

(少年の非行歴と少年院における処遇経過)

少年は窃盗(集団スリ)で身柄を拘束され、保護観察に付されたものの、約一ヵ月後に折たたみナイフ所持で補導され、さらに約五ヵ月後暴力行為等処罰ニ関スル法律違反(暴力団を仮装しての脅迫)で身柄を拘束され、補導委託付試験観察となつたが、適合せず、試験観察を取消して審判を続行したが、観護措置を解いた途端所在不明となり、約一ヵ月後成人共犯者と窃盗事件(店舗荒し)を行つて逮捕され昭和五〇年九月三〇日中等少年院(茨城農芸学院)に送致された。少年は既に一九歳七ヵ月に達していたため刑務所でなく少年院に送致されたことに不満を持ち抗告をしたりしたが、当初は前向きの姿勢を示したものの非行に対する反省心を欠いていたため、間もなく更生の意欲を喪失し、矯正教育を無視する態度に出て、個別指導にも応ずることなく、「余計なお世話だ。」という態度を崩さず、最下位の成績を示した。昭和五一年二月一四日院長権限による収容継続が行われた。同年一月三一日逃走を企画したり、同年四月二一日「職員の墓」などの落書をし、注意する職員に暴言を吐くなどし、いわば偽悪家的態度を強く示したため、同院における集団処遇が困難ということで、八街少年院に移送して処遇にあたることとなつた。

この移送に対して少年は強く不満を持ち自暴自棄な状態となつた。八街少年院は考査期間を延長し、ねばり強く個別処遇にあたつた。その結果多少落着きが見られたため集団処遇へと移行した。しかし集団処遇においては、年齢が自分より下の上級生に対しては面白味がないといつて馬鹿にし、新入生に対してはからかつたり、職員に暴行を加えるように煽動し、あるいは新入生に暴行を加えるなどして、問題行動を起し、集団処遇は極めて困難となつた。このことで単独寮に戻されることになつたがこれを不満として職員に暴行を加えた。八街少年院においても結局何ら反省のない態度に終始し、将来に対しても全く希望のない場当り的な態度をとつていたためそのまま処遇を継続するのは困難となり、特別少年院である小田原少年院に移送された。

昭和五一年八月一三日小田原少年院に移送されてからは特に基本的態度には変化はなかつたものの、特段暴行事件等のないまま一ヵ月程経過し当初の収容から一年近くになつた。しかし成績不良のため(当時二級の上)、さらに収容を継続して矯正教育にあたる必要があつたため、調査官が少年と面接し調査を行つた。その数日後少年は教官に暴行を加え逆に取りおさえられるなどの事故を生じ、単独寮で反省を求められるも何ら反省の態度を示さず、収容継続の審判においても同様の態度であつたため、昭和五一年九月二四日、六ヵ月間の仮退院後の保護観察期間を含めて少年を昭和五二年一〇月二九日まで収容継続する旨の決定がなされた。

小田原少年院においては教官暴行があつたことと、集団処遇にのらないことなどのため、さらに愛知少年院に移送された。

昭和五一年一一月一七日に二級の下で移入になつた少年に対し、愛知少年院においてはこれまでの各少年院における処遇経過を検討し、その結果をもととして処遇にあたつたため、比較的順調に進んだが、しばらくすると緊張感がなくなり、不遜な態度を示すようになつたため少年との話し合いの結果昼夜間単独処遇を行つた。もつとも当初予定された仮退院時期も近くなつたので、あわせて仮退院後の調整をはかつた。少年は五二年四月一日一級の下に進級した。ところが、同年五月二日教務課長が少年に対し昼夜間単独処遇を解除し、個室処遇とし、製版印刷科へ復科させる申し渡しをした際少年は個室処遇を不満とし集団寮へと転寮させるよう不遜な態度を示したため、そのまま処遇変更を保留し、引続き昼夜間単独処遇を行つた。

同年六月三日出院後にそなえて更生保護会の園長の面接があり、少年も出院が間近いことを認識した。

昭和五二年七月一日午前一〇時三〇分頃、教務課長が少年に一級の上進級、個室処遇解除、製版印刷科への復科の申し渡しのため赴いた際、単独寮の西出入口付近で教官に連れ出されてきた少年はいきなり手拳で教務課長の左頬部を一回突き転倒させ、全治一〇日間を要する左頬部挫傷、右前腕部挫傷の傷害を与えた。この暴行は突発的な行動で、計画的なものではなく、個別処遇などが長期に亘つたためその不満が父親像とだぶつて教務課長に爆発したものであると思われる。

暴行事件の後も、少年は反省することなく、相変らず不遜な態度に終始し、どうにでもしてくれという態度であつたが、審判時においては前回の収容継続時に見られた捨てばちの態度ではなく一応の応答はでき、前回よりは前向きの答えが得られた。

(再鑑別の結果)

名古屋少年鑑別所長作成名義の再鑑別結果通知書によると、結論的に「一移送による処遇の場を変え、気分の転換をはかるのが適当である。二収容期間の延長も必要である。三すでに収容期間が長期に及び収容生活にうんでいる、また矯正教育にも限界を感じられる事例なので、あまりに高い処遇目標は適切とは思われない。心的な転機や好転のきざしがみえたら、なるべく早期に社会内処遇に移行すべきであろう。」という判定である。

以上の諸事実をもとに当裁判所の見解を示す。

当裁判所は、少年について、少年院における矯正教育をこれ以上続けることは意味ないと判断し、収容継続を重ねて行うべきでないとの結論に達した。

その理由は、上記生育歴からみて明らかなとおり、その性格の偏奇性はかなり強度であつて各少年院における個別処遇によつて結果的には何ら改善のきざしを見せていないし、集団処遇はそもそも行えない状態にあるとすら言いうる状況にあり、少年自身既に自分が二一歳を過ぎて少年院で未成年の少年と同じにあつかわれることに対して屈辱感を強く抱いているうえ(刑務所へやれという言葉が端的にそれを示す。)既に四個所の少年院をわたり歩いていわば少年院ずれしていて客観的にも素直に聞くという気分転換がはかれない状況下にあり、既に二年余の拘禁状態も少年に反省をうながすどころか寧ろ少年の偏奇さを一層強める方に作用しているからである。もつとも、この状態で退院させることには多くの問題を含んではいるが、少年には実社会に出れば一人で喰つて行かれるという自信があり(更生保護会の援助を進んで受けようとする気が見られる。)、さらに拘束状態を続けた場合にはこの意欲すら喪失しかねないし、少年を施設内での教育にある程度のせようとすれば、六ヵ月程度の期間ではいかんせん中途半端であり、少年の構えを崩して再出発させるにはさらに長期間拘束する必要性があるが、これは拘禁が少年の性格に与える影響に加え成人との共犯事案でその均衡上これ以上継続するのは既に成人に達した少年にとつて問題であり、又少年が他の少年に与える処遇上の悪影響も無視しえないことや、今回の収容継続申請は保護観察期間を含めての収容継続ではあるが前回収容継続期間もそれを含めて一年一月余を定めたのであつてさらにこれを延長するのは余りにも少年の心理に与える影響の度合が大きく、さらに対人不信感をつのらせる結果となることから、この際当初期間満了で退院させ、爾後の問題行動は成人として責任をとらせる方が相当であると判断した。

なお、本件と併行して愛知少年院長は収容期間延長についての相当、不相当の意見を求めているが、収容継続においては収容期間を明示して決定されるので、さらに延長についての意見を求める必要はない。仮りに延長する必要があれば本件の如く収容継続を求めてその判断にゆだねるのが相当である。

以上の次第で当裁判所は本件収容継続をしないのを相当と認め、主文のとおり決定する。

(裁判官 佐々木一彦)

別紙

一 少年は窃盗保護事件について昭和五〇年九月三〇日、東京家庭裁判所において中等少年院送致の決定を受け、同年一〇月三日、茨城農芸学院に入院したが、入院当初より問題行動が多く、次第にボス化の傾向を示し、職員の指示、指導を全く無視し、注意に対しては反抗し、成績は向上せず、同院としては生活の場をかえるため昭和五一年五月七日、八街少年院に移送した。

二 しかし少年は移送当初より、意欲に欠け、反抗的態度が強いため同院においても強力に個別指導した結果、わずかながら前向きの姿勢を示したが、次第に成績は再降下し、職員暴行を加える煽動をしたり、他生に暴行を加えている事実が判明し、七月一七日には調査の為、単独寮へ連行した教官二名に対し、同寮廊下において殴る、ける、頭突きの暴行を加えるに至つた。更に少年が茨城農芸学院時代に折合いの不良であつた者が再入して来た為、両者を処遇する事が困難であるとの理由で昭和五一年八月三日、小田原少年院に移送になつた。

三 小田原少年院では移送当初より、ふてくされた投げやり的な態度がみられ、常に不平不満を述べ教官の指導にたいしては、反抗的な態度であつたため、同院では個別指導を強力に進めたが処遇になじまず、生活態度不良について注意した職員に対し、職員暴行をはたらくに至つた。更に同院でも問題少年が何名か在院していることから少年は虚勢をはり更に問題の発生が考えられたので矯正教育の場をかえるため一一月一七日、当院に移送となつた。

四 当院に移入当初から表情は堅く、教官の指導に対しても拒絶的な構えではあつたが、昭和五一年一二月一六日集団寮に移し印刷科に編入したところ、時の経過と共に気持の緩みが日常生活の行動にあらわれ、昭和五二年二月二三日、居室内での生活態度について注意、指導されたことについて反抗的な状態が強くみられたので、調査、反省のため単独寮に収容し以来根気強く担任教官より少年の欠点を指摘したり短所を指導した結果、少年自身、自己の非を認め暫時内省したいとして昼夜間単独処遇を希望したのでこれを機会に好転することを願い、三月一七日課長説諭の上、当分の間、昼夜間単独処遇とした。その後約一ヵ月経過し、少年自身も前向きに生活に取り組む態度が見られるようになり、適当な時期と判断したので、五月二日教務課長より昼夜間単独解除、個室処遇、印刷科に復科を申渡したところ、不遜な態度で個室処遇を拒否し、「集団寮でなくてはいやだ。」と申出たため、その申渡しを保留した。

五 その後おりにふれ積極的に指導したせいもあつてか、六月に入り表情も和らぎ、職員に対する接し方にも笑顔がみられ、出院時の帰住地である更生保護会○○園にも調整がつき同園長の面接を受けるなどの条件もあつて精神的なごみが見受けられてきたので七月一日付にて一級上進級、個室処遇解除、印刷科復帰を決定し、七月一日教務課長が言渡しをするため生活指導係長と共に単独寮に赴き、同寮西出入口附近、渡廊下で待つていた際、保安係長が少年を居室より出し、西出入口を出たところ、少年はいきなり一歩ふみ込み右手拳固で同課長の左顔面を強く突き全治一〇日間を要する左頬部挫傷、右前腕部挫傷の傷害をあたえたものである。

六 少年は生育の事情から家族に対する反感が極めて強く、その人間不信感は根深いものがある。他人に対しては素直になれず、投げやりでふてくされた態度に終始し、言語、動作共にきわめて粗暴で内省力、規範意識、罪障感がいちじるしく欠け、どこででも独力でやつてゆくという、自信過剰的なものをもつている。更に昭和四九年以来の浮浪生活がその自信を強めさせ、人間不信、権威に対する反抗心を助長し、社会生活に必要な内省力、規範意識、罪障感、あるいは人間らしい感性の欠如をつのらせて来た。

七 今回の職員に対する暴行傷害事故についても、自己の生活態度には些かも反省を加えず「院の処遇(長期間単独処遇自己の要求が容れられなかつたこと)に対する当然の酬いだ」とうそぶいている有様で非行の負因となつた少年の性格の歪みは矯正されたとは云い難く本年九月二九日の満二ヵ年満了日までの約二ヵ月半に之を達成することは至難である。

八 更に少年の両親は現在東京都内に居住しており少年の当院へ移入当時は引取の意志表示をしていたが、担当保護司を通じての環境調整報告書によると「適当な職なく又住居狭小のため適当な機関にて引受けてもらいたい由の報告があつたので(実情は少年が実父を強く怨んでおり親和性は全く認められない。)急拠、帰住地変更、愛知県下の更生保護会立正園に帰住先を決定した。

九 よつて更生保護会へ帰住させるに当つてはある程度心情の安定をまつた上、仮退院により出院させる必要がある。又更に帰住後も引続き保護観察の必要性を認めるので、その期間も含めて満二ヵ年経過後七ヵ月の期間延長を必要と考える。

一〇 なお少年については本年一〇月二九日、少年院法第一一条第二項による収容継続期間が満了するので別途東京家庭裁判所宛に収容期間延長に関する相当、不相当の意見を求めている。

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